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くまもと<河原町>築40年の空きビル再生へのはじめの一歩


自由なる前進!GOAの河原町に贈るメッセージだ。
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000169999990179←ありがたや新聞に載りました→

2001年、私は魅力的な物件に出会いました。それはくまもとにある<河原町>。その再生のはじめの一歩を少しずつご紹介します。この街は私が、ふとしたことから出逢った空きビルです。ちょうど6年も前になります。暮れも押し迫った12月末の30日、それはそれはいい天気の日でした。もう築40年もたった建築物でしたが、それがなんともやさしい建物に見えました。きっと壊されることになるであろう、そのビルは、不思議な構造をしていました。たぶん今なら建築法違反になるのでしょうが。この構造に興味をそそられました。

(写真はそのビルの壁にライブペインティングをしてくれたGOAの福田くん、絵のタイトルは【自由なる前進】)


河原町国際繊維ビル

街の中心市街地からそう遠く離れていないところに、<河原町>停留所はあります。熊本市役所から5つめの路面電車の停留所です。その近くにあるのがこの<河原町繊維問屋街>です。

国際繊維組合として栄え、商業地域として街の中心となるほどの役割を果たしていましたが、流通構造の変化による業界の衰退、経営者の高齢化、川尻電車の廃線。郊外型商業施設の影響などによりスラム化の一途をたどっていました。

横壁に【自由なる前進】は描かれたのですが、この絵が描かれることになるまでに、4年の月日が流れます。

出逢ったのは2001年12月30日、次の日に即、元組合長とお会いしました。オーナーと連絡をとりはじめましたが、持ち主と面談する努力をするも、相続人が県外におられたり、高齢のため体調不良でお会いできなかったり、引越し先住所が不明だったり、なかなか進捗しませんでした。なにせ地権者が50人もいたのですから。近所の皆さんに<再生などあきらめなさい>と云われました。今となっては懐かしいです。浅はかにも2002年3月まではオーナーの一網打尽を考えていたのです。時が止まった<河原町>、誰もここの再生を考えなかったわけではありませんでした。出来ない深い訳があったのでした。知らぬが仏の私は、世間知らずな奴でした。

昭和40年頃の河原町


戦後の闇市(知らないけど)がこのあたりに出ていたんです。お寺のまわりにそういう市が出ていて、にぎわっていたらしく、戸板商売と云われてました。(古~)美空ひばりの歌声が聞こえていた?その闇市の跡地には、200件もの問屋街が出来、一帯は盛りあがったんだけど、昭和37年に大火事で半分が焼失。その後建てられたのが、最初のほうに写真で紹介したビルです。

写真は昭和40年頃のビル前の通りだけど(七光写真館提供)私は9歳。河原町は最盛の頃だったのかな?

この写真はビルの中ですが、2002年私が撮影。シャッター商店街のきわみ?2階建てで、顔を出すととなりの部屋が見えます。2001年ベトナムにあこがれホーチミンへ旅に出かけました。そんなベトナムの市場にこの河原町のビルは似たものがありました。においのようなものが。一目で気に入りました。一目惚れ?ですね。住んでるひとには迷惑だけど(笑)上をみあげるとアーケードになっていて、このヒューマンスケールがなかなかいいんですよ。ここを若いアーチストのアート工房にしたいと訳もなく、沸々思い立ったのでした。

私の挑戦心がはじまる瞬間です。無謀な奴。知らぬが仏。

この場所から地元の大手スーパー(ニコニコ堂)のルーツが見つかったのです。再生構想を聞きつけて(そうとうこの荒っぽいチャレンジについて聞きつけた記者や取材陣が、市長やら、組合長やらのところへやら行ったからなのですが)林会長が見に来てくれたそうです。うれしかったですねぇ。

以下2004年の新聞記事から
熊本市河原町「アートの街」
2004年11月27日


築約45年の共同ビルは「レトロ」そのもの。昭和30年代の雰囲気が漂う

  熊本市の問屋街の一角に、若い力が集い始めている。熊本市電「河原町電停」の南側。戦後のヤミ市跡に建てられた繊維問屋街の共同ビルに、若手クリエーターらによるアトリエやギャラリー、カフェなどが、次々と出店している。03年9月には、国土交通省の「全国都市再生モデル調査」の対象にも選ばれ、注目は高まる一方だ。(渡辺淳基)

  午前8時半。熊本市河原町で婦人服卸「丸一商店」を経営する金城光雄さん(73)は、いつものように店のシャッターを上げた。商品の配置を整え、ラジオをつける。そして、表通りに向いたカウンターのイスに腰を下ろす。

  窓の外の通りに、若者の姿が目立つようになったのは1年半ほど前だ。金城さんら数軒の繊維問屋を残して空き店舗が目立つようになった共同ビルに、装飾品や絵を制作する若者たちが入居し始めた。

  第1号に開店したのは、03年春のアクセサリー・衣料品店「MOJO PIN」。今では、飲食店や衣類店など20店が入っている。

  「ご近所」のカレー店に昼食を食べに行くことがある。「若者のつくるタイ風カレーは汁ばかりで変わった味。でも、それなりにうまい」

  2階建ての共同ビルが、繊維商らの共同所有の形で建てられたのは、ヤミ市一帯が燃えた1958年の大火災の直後。60年代には、商取引の中心地の一つとして、約50店舗がひしめき合った。

  だが、石油ショックなどを境に徐々に空き店舗が増えた。当初からの問屋は現在、わずか4、5軒を残すのみだ。

  そんな問屋街に、「レトロ」という魅力を見いだしたのは、同市の企画会社長前崎弥生さん(48)だった。「第一印象は『アジアの市場』。でも、ただの小売りでは大手の流通力にかなわないと感じ、方向性を『クリエーターの街』へと変えていった」

  前崎さんはまず、ビルの所有権を調べた。区画ごとに分かれた所有者と会い、賃貸を依頼。「仕掛け人」として、若者に声をかけた。

  調査では、歴史的建物を生かした町づくりに取り組む市民団体「熊本まちなみトラスト」(事務局・熊本市)にも協力してもらったという。

  10月にアンティーク着物店「一反」を開いた井上藍子さん(26)は「賃借料が安く、レトロな雰囲気が気に入った」。街の常連という熊本市の永楽裕治さん(26)は「神戸・元町のガード下と同じ雰囲気を感じる。隠れ家感覚で、出会う人たちも魅力的」。

  集客力や建物の修繕など、課題も少なくない。店主らでつくる河原町組合副会長で「ギャラリーADO」の黒田恵子さん(38)は「シャワー通りなどと違い、河原町は大きな商店街から離れている。これから、街としての力が問われる」。

  金城さんが所属した河原町繊維卸商組合は、2月から休止状態だ。金城さんは「自分もそろそろ引退。若者たちが力をつけ、街を盛り上げてくれたら、この店も貸し出すつもりです」。

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この記事へのコメント
37年の大火事とありますが、正確には33年3月4日の火災ではありませんか?当時十禅寺町に住んでいましたが、火事が目の前に見えるくらいの大火事でした。残り火がいつまでもくすぶっていた記憶があります。
Posted by 森山 at 2010年01月24日 14:03
森山様
ありがとうございます。

内容は朝日新聞さんの記事から抜粋した記事でした。調べてみます^^
Posted by columbus at 2010年01月25日 09:52
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